
先達との出会いで決断した建築学への道
私が大学の進学先として建築学科を選択することになった契機のひとつには、現東京都市大学の学長でいらっしゃる野城智也先生との出遭いがあります。野城先生は家族の友人を介してご紹介頂きました。当時先生は建築学科の大学院生で、建築学には多岐に渡る学問があることや建築を勉強することの面白味を教えてくださいました。
幼稚園から高校まで女子校で育った私。1980年代当時、理系、特に工学部に進学する友達が少なかった中、建築学科に進むことを決意できたのも、野城先生にいろいろとお話を伺うことができたからかと思います。
武蔵工業大学は、高等工科学校として始まり、とても歴史の深い学校ですから、建築学を学ぶのに良い大学と考え選択しました。

現実の厳しさを語る、
忘れられない先生の一言
大学生活の中で最も印象に残っている言葉―それは、大学一年の最初の設計の授業で、当時教鞭をとられていた広瀬鎌二先生が私たちに放った一言です。有名建築家で、スラっと背の高いハンサムな先生が黒板の前に立ち、ぐるりと教室を見渡した後にこうおっしゃりました。
「僕はこの中から一人有名な建築家が出たら嬉しいな。」
入学したばかりの私たちにはとても衝撃的な言葉でした。180人の新入生全員が建築家になることを目指し入学してきただろうに、“一人なれたら”なんて、夢を叩き壊されるような思いでした。しかし振り返れば、先生は建築家という職能の、厳しい現実を一年生の段階から教えて下さっていたのです。生半可な気持ちで勉強するな、身を引き締めろ、というメッセージでした。ありがたいお言葉だったと思います。
とにかく厳しかった建築学科
厳しさがあってこその今の自分
武蔵工大の教育は厳しかったですよ。将来クライアントを相手に仕事をしていくのだから、与えられた設計課題を時間内にこなすことは必須でした。完成できなかったら「田舎へ帰れ」というスタンプを押されましたね。広瀬先生のお言葉に隠された意味も徐々に理解できるようになりましたし、建築家には勉強だけでは構築されない才覚が必要であることも感じ始めました。本当のところ、私は設計は余り得意ではありませんでした。先生方から厳しい講評も受けました。その時は辛かったし、悲しくもありましたが、後から思えば、そういう先生方が早い時点できちんと私の才能を見極めてくださったからこそ、自分が好きだった建築意匠学の道に従事しつつ、それを他の道、つまり建築資料學に発展させていく道を切り開くことができたのだと思います。

自然と海外に対する目が開かれた学生生活
ありがたいことに、武蔵工大は有名な建築家の先生方から意匠を学べる環境にありました。例えば、二十世紀を代表するアメリカ人建築家のルイス・カーンの下で勉強された新居千秋先生や、イギリスを代表する建築家ジェームス・スターリングを師匠とされていた巴辰一先生が教鞭を執られていました。先生方は設計の講評会の時によく自分たちの師匠を例にだして、「カーンはね…」、「スターリングはね…」と話されていました。先生方から学んでいくうちに、海外で研鑚を積むべきという意識が芽生えたと思います。
建築設計から建築史料の世界へ
私は学部を卒業後、建築歴史・意匠学に専念するために東京都立大学に移り、そこで修士、博士号を取得しました。博士課程の間に、アメリカの建築資料館に通うようになり、原資料のもつ威力を体感し、それが契機となって建築史料保存へ興味が移行。博士課程を修了後、助手として同大学で働いていましたが、日本の建築史料の保存現況、特に丹下健三など、日本の近代を構築してきた建築家の史資料が安全に保管されていないことを知り、日本の建築史料保存の実態を懸念し始めました。そんな中、幸いにフルブライトと文化庁の奨学金を頂くことができ、アメリカのコロンビア大学の建築資料館やニューヨーク近代美術館で、建築史資料の収集、保管、管理、公開に関する研修を行う機会を得ました。帰国後、日本に建築資料館を設立すべきという意識が増大。意思を分かち合う方々と活動を始めました。しかし、バブル崩壊後の経済問題や、若僧だった私の微力-ハザードは沢山あってなかなか実現に至りませんでした。それまでにはすでに建築史資料を扱う仕事が自分の生涯の仕事と確信していましたから、いつまでも日本に建築資料館が設立されるのを待っている訳にもいかない。それで、2000年に大学を辞任して、アメリカに移住しました。

建築の史資料を扱う学芸員の仕事
自分の特性を生かせる仕事
現在私は米国議会図書館で建築の学芸員を務め、建築史資料の収集、研究者の対応、ミニ展覧会企画などの仕事をしています。この仕事の醍醐味は何と言っても自分が培ってきた建築歴史・意匠学、並びに建築史資料保存・公開に関する知識と、それらに対する自分のパッションを活かせることです。資料を様々な角度から理解することができるという点が役立っています。学生時代に図面を描いていたことが、図面を解読できる力につながりました。大学院時代に建築史料を使う立場になり、様々な媒体の建築史資料に潜む情報を解析し、自分の学説を構築していくトレーニングを行った。その後大学で学生を指導したことや、建築資料館で研鑚を積むことによって、どんな資料を収集すべきなのか、またサービスの原点を勉強しました。これらの経験が今、利用者に役立ちそうな資料を様々な観点から見つけ出し、彼らが求めているものを越えて提供し得る力につながっています。
また、建築以外ではありますが、日本人であることを活かして、日本文化に関する行事も手掛けています。1912年に東京市からワシントンへ桜が寄贈された時の関連史料を基に、寄贈100周年時の2012年には、記念展覧会やトークイベントを企画し、その後本も出版しました。また私の信念は「継続は力なり」なので、毎年日本文化を伝承する、ジャパニーズカルチャーデーというイベントを続けています。
学芸員になるために必要なこと
それは学ぶことが好きで、
学ぶことに貪欲になること
現職場における新採用の学芸員は、博士号を取得している人がほとんどです。それだけ専門性の高い職種だと思います。技術員も修士号を持っている人が大半です。学芸員、特にアメリカで働くにはこういう現実をわきまえておいた方がよいかもしれない。また専門外であっても、自分についている技量は全て武器になります。若くて何でも吸収できる時期に、どこに転んでもよいように、やれることは何でも勉強しておくとよいでしょう。

プロアクティブに動くこと、
選択に自覚をもつこと
やってきたことに無駄はない
私の経験から、学生の皆さんに、次の3つの応援メッセージを送りたいと思います。プロアクティブであること、自分の決断に責任をもつこと、そして“Nothing is waste(何事も無駄ではない)”ということを信じてなんにでも精一杯取り組むこと。人生にはいつも選択があり、その度に悩みがつきまといます。そのような時は、先達の方々、つまり両親や先輩、先生といった、既にいろいろな経験を積んでこられた方に問いかけたらよいと思います。経験がものを言う場合がたくさんあるからです。そういう方と話をすることで開眼することがあります。提案されたことに従わなくても、それを肥やしに自分が決断すればよいのです。私の場合も、野城先生、新居先生、そして多くの方々とお話し、ご助言を頂いたことによって道が開かれました。大切なのは自ら話しかけに行くことです。また、最終的に決断するのは自分であるという自覚と責任感を持つことも忘れないで欲しいです。誰かが言ったから、こういう風に言われたからやるのではなく、その都度、自分の責任で決めたのだという自覚を持つべきです。
そして、“Nothing is waste.” やってきたことがすぐに役立つわけではないし、また自分の職業に直結するとも限りません。でも自分が経験したことは、いつか何かの形で役立つ。無駄なことなど何一つありません。私のように、建築の知識を図書館情報学の領域で活かすことになったようにです。柔軟に考えて、自分が身に着けたものをどう活用できるか、自分が得意な道に反映できないかと考えることです。そのためには自分の専門を広い世界の中から眺めてくることも必須ですね。自ら選択したものを途中で投げ捨てず、与えられたことをなんでも頑張ってやってみてください。
- 写真撮影:
Shawn Miller, Katherine Blood
- 関連リンク:建築都市デザイン学部 建築学科